カミングアウトするという言葉は自分の性的志向を誰かに告白する過程のことを指して使われます。
カミングアウトの過程で、セクシュアリティーの以前に、あなたの存在自体が大切であることを忘れないでください。
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カミングアウトは信じられないくらい勇気のいること
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カミングアウトは、リスクにも祝福にもなり得ます。ある人は家族や友人から受け入れてもらえないかもしれないリスクがあるし、またある人はカミングアウトすることによって家族や友人との絆がもっと強く、近くなったと感じるかもしれません。
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カミングアウトは個人的な道のりで、特にまだクローゼットの中で(カミングアウトせずに隠しているという意味)心の深いところに恥を感じている人にはとても難しいことでしょう。恥はその人を麻痺させる感情になり得ます。カミングアウトの過程であなたのセクシュアリティーがどうであれ、あなたは大切な存在だということを忘れないでください。
安全な場所で、分かち合う時、恥は消え去ります。
安全な場所って、どういう所でしょう?
使徒パウロはエペソ人への手紙5章でこう教えています。暗闇の中に隠された秘密を神の光の中に持って行くなら 隠れた恥は私たちに及ぼす力を失うと
あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。—光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。なぜなら、彼らがひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。
エペソ人への手紙5章8節ー13節
クローゼットからカミングアウトして、光の中に出て来てからどうすればいいのでしょうか。カミングアウトは人に受け入れてもらうためにする決断でもあります。自己の受け入れ、親しい人々から受け入れられ、世の中から受け入れられるために。
カミングアウトしてポジティブな経験をした人もいるし、そうでない人も残念ながらいます。人間の愛は素晴らしいものですが、同時に欠陥もあります。しかし神の愛はそれを遥かに超えた、大きなものです。
父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。
ヨハネの福音書 6章37節
放蕩息子が父の家に戻ってきたように、私たちも天の父の元に愛する子供として帰ることができます。息子が父の家に帰ってきた時、父の最初の反応は厳しさではありませんでした。代わりに父ができる息子への最高の愛情表現で、召使いに持ってこさせた最高の上着を愛する息子に着せ、宴を催し放蕩息子の帰還を祝いました。
ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。ルカの福音書15章22節ー23節
もしキリストの愛がどれほど広く、長く、高くそして深いかを垣間見ることができるなら、私たちが息子や娘として帰ってきた時、天の父がどれほど喜ぶかを想像できるのではないでしょうか
だからただカミングアウトするだけじゃなく、家に帰ろう。天の父があなたを待っています。
タンリー・ウェンによる原文(True Love Is)より翻訳